- 初代 【 利休宗易 】(りきゅうそうえき)
- 二代 【 少庵宗淳 】(しょうあんそうじゅん)
- 三代 【 咄々斎 】(とつとつさい)
- 四代 【 臘月庵 】(ろうげつあん)
- 五代 【 不休斎 】(ふきゅうさい)
- 六代 【 六閑斎 】(りっかんさい)
- 七代 【 最々斎 】(さいさいさい)
- 八代 【 又玄斎 】(ゆうげんさい)
- 九代 【 不見斎 】(ふけんさい)
- 十代 【 認徳斎 】(にんとくさい)
- 十一代 【 玄々斎 】(げんげんさい)
- 十二代 【 又玅斎 】(ゆうみょうさい)
- 十三代 【 圓能斎 】(えんのうさい)
- 十四代 【 無限斎/淡々斎 】(むげんさい/たんたんさい)
- 十五代 【 鵬雲斎 】(ほううんさい)
- 十六代 【 坐忘斎 】(ざぼうさい)
初代 【 利休宗易 】(りきゅうそうえき)
大永2年(1522年)~天正19年(1591) 享年70歳
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。
わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられ、[利休七哲]に代表される数多くの弟子を抱えた。
二代 【 少庵宗淳 】(しょうあんそうじゅん)
天文15年(1546)-慶長19年(1614) 享年69歳
千利休の養子にして女婿。千宗旦の父。実父は能楽師の宮王三郎三入とされるが、近年松永久秀説も再浮上している。
三代 【 咄々斎 】(とつとつさい)
元伯宗旦(げんぱくそうたん) 天正6年(1578)-万治元年(1658) 享年81歳
父は利休の後妻千宗恩の連れ子千少庵、母は利休の娘お亀であり、少庵の京千家を継いだ。
四代 【 臘月庵 】(ろうげつあん)
仙叟宗室(せんそうそうしつ) 元和8年(1622)-元禄10年(1697) 享年76歳
江戸初期の茶人。千宗旦の4男。通称長吉郎。季子であるが、利休の孫としての父宗旦がさらに追求した、侘び茶の境地を茶室今日庵・又隠・寒雲亭と共に継承し裏千家を確立した。
五代 【 不休斎 】(ふきゅうさい)
常叟宗室(じょうそうそうしつ) 延宝元年(1673)-宝永元年(1704) 享年32歳
織田有楽の孫三五郎長好とも交友をもっている。仙叟の子不休斎常叟は、5世を継承して加賀藩の茶道奉行となり、のち伊予松山藩主久松家にも仕えた。
六代 【 六閑斎 】(りっかんさい)
泰叟宗室(たいそうそうしつ) 元禄7年(1694)-享保11年(1726) 享年33歳
七代 【 最々斎 】(さいさいさい)
竺叟宗室(ちくそうそうしつ) 宝永6年(1709)-享保18年(1733) 享年25歳
八代 【 又玄斎 】(ゆうげんさい)
一燈宗室(いっとうそうしつ) 享保4年(1719)-明和8年(1771) 享年53歳
九代 【 不見斎 】(ふけんさい)
石翁宗室(せきおうそうしつ) 延享3年(1746)-享和元年(1801) 享年56歳
十代 【 認徳斎 】(にんとくさい)
柏叟宗室(はくそうそうしつ) 明和7年(1770)-文政9年(1826) 享年57歳
十一代 【 玄々斎 】(げんげんさい)
精中宗室(せいちゅうそうしつ) 文化7年(1810)-明治10年(1877) 享年68歳
1840年(天保11年)の利久250年忌に際し、今日庵の建物の増築を重ね、現在重要文化財となっているものは多くがこの時のもの。尊超入道親王を迎えて献茶するにあたり[逆勝手大炉]を切った。1860年(万延元年)に点茶盤による[立礼点前]を考案。1865年(慶応元年)には禁裏献茶を行い、その時に残った茶を入れた中次(献残中次)を用い古袱紗を下敷きにする[和巾点]を復興披露した。
十二代 【 又玅斎 】(ゆうみょうさい)
直叟宗室(じきそうそうしつ) 嘉永5年(1852)-大正6年(1917) 享年66歳
十三代 【 圓能斎 】(えんのうさい)
鉄中宗室(てっちゅうそうしつ) 明治5年(1872)-大正30年(1924) 享年53歳
十四代 【 無限斎/淡々斎 】(むげんさい/たんたんさい)
碩叟宗室(せきそうそうしつ) 明治26年(1893)-昭和39年(1964) 享年72歳
弟に井口海仙。1940年全国組織の淡交会を設立、裏千家発展の基礎を築く。
十五代 【 鵬雲斎 】(ほううんさい)
汎叟宗室(はんそうそうしつ) 大正12年(1923)-
若宗匠時代は宗興。現在は大宗匠・千玄室と称する。「玄室」の名は、千家4代目の仙叟宗室が宗室襲名前に玄室と名乗っており、これに因んで12代直叟宗室が隠居した際に玄室を名乗ったことに由来する。
十六代 【 坐忘斎 】(ざぼうさい)
玄黙宗室(げんもくそうしつ) 昭和31年(1956)-
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